リットン調査団と松岡洋右の国際連盟脱退演説-我が代表堂々退場す
戦前の歴史として、日本にとって転機になった満州政策。
1931年、柳条湖事件が起こった。中国の要請を受け、翌年の1932年2月(昭和7年)、国際連盟はリットン調査団が派遣した。
以下の外務省史料のリンクが詳しい。
そして、リットン調査団の報告書がまとめられ、当時、松岡洋右が国際連盟脱退演説をすることになる。
国際連盟で松岡洋右はなにを言ったのか、知りたいと思った。そこで、「松岡洋右 演説 国際連盟脱退 全文」と検索すると、このようなホームページを見た。
国際連盟脱退のときの演説の内容がわかる資料はないか。 | レファレンス協同データベース
外務大臣・松岡洋右の国際連盟脱退演説の全文を探しています。『欺かれた歴史』齋藤良衛1955、『松岡洋... | レファレンス協同データベース
youtubeにも掲載されている。日本語訳つき。
このような演説を高尚な英語で堂々と言えることはすごい。
全権大使である松岡洋右の強弁もむなしく、報告書が議決されていった。そして最後の部分で、有名なセリフを残すことになる。
Japan, however, finds it impossible to accept the report adopted by the assembly.
彼の本心はわからないが、戦争を望んでいなかったかもしれない。帝国政府という、極東でまことに小さな国が、国際社会を敵にした。
マスコミの世論や軍部の意向を無視できなかったのかもしれない。
政治家とは、時に、自身の本心や政治的思想を抑えていかないといけない。厳しい外交交渉は、まさに国益をかけた駆け引きが行われる。苦しい葛藤があるのではないか。
外交官もそうだろう。面従腹背という言葉があるが、ときにむなしさも感じると思う。
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この演説で退席した松岡洋右の姿を「我が代表堂々退場す」というフレーズをつけた。日本の当時のマスコミのネーミングセンスはすごい
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ちなみに松岡洋右の一生には次のページが詳しい。